おれは、太平洋戦争で一番たくさん殺された大正一〇年生まれの男だ。
愛する人と結婚した。子どもが生まれた。かわいい。ビール飲む。うまい。時にふれ折りにふれ、殺されていったあの顔、この顔が思い出されてくる。かれらは、みな、チョンガーのまま、「おかあさん」と、たったひとこと残したまま、殺されていった。
そうした彼らの魂は、死後もなお、安らかにねむってなどいられるものではなかろう。「再びあやまちを繰返しません」と誓ったはずの祖国が、またぞろ、大日本帝国の歩んだ道を、歩きはじめだしている。B52などというヤツが、オレの師範友だち遠藤と曽根が餓死した、その沖縄から飛び出している。おれの中学友だち佐藤が、そこで行方不明になったベトナムへ、爆弾落としに飛び出している。安らかに眠れる道理がない。彼らは、おれの教壇に目をそそぐ。
それを思えば、おれの教える子どもたちこそ、戦争というものに対し、強い憎しみを持つ子どもになってもらわねば、と願いがわく。戦争につながる一切の悪に、断固として抵抗する、聡明で凛々しい若者にまで成人してもらいたい、との願いがわく。それこそが、生き残った自分に課せられた仕事なのだという、使命感がわき出てくる。
「原爆の子」を読む
そこでおれは、戦争に対する憎悪を子どもたちにぶつける。なんとかして、子どもたちが、わたしと同じように戦争に対する憎しみをもってほしいと願う。こんなことがあった。
ある年の暮れ、おれは、中国新聞の方から、一九六四年一二月一日の閣議で、〈カーチス・E・ルメー米空軍参謀長に対し、勲一等旭日大綬章を贈呈することに決定した〉ことを聞いた。ルメーは、日本の航空自衛隊の育成に尽力し、極東の平和維持に貢献した人物であるから、という理由で! ルメーは、広島・長崎への原爆投下を指揮した男である!
おれは、心を沈め、真心こめて子どもたちの胸の奥底にまで、「原爆の子」を読んでやらずにはいられなかった。すると子どもたちは文集「エントツ」26号にこんなことを書いた。
涙
吉田 秀子
静かな広島の町を
いきなりおそったあの原爆
からだの下の方から
ふるえがおこってくる
本の字がうすぼんやりしてきた
涙がほおを伝わっていく
急いで涙をふいた
みんなを見た
みんな下を向いている
目を赤くして下を向いている
「コンバット」と「原爆の子」
石綿 明
「コンバット」を見る
ガッガッガッガッ
ガッガッガッガッ
兵隊・おばさん・子ども
バタバタたおれていく
ぼくは
いいぞかっこいいぞと
パチパチ手をたたく
しかし
新聞配達の金で買った「原爆の子」は
ぼくの気持ちとまるっきりちがう
広島の子どもたちは
二度と戦争をおこすなと
訴えている
少年少女全部が祈っている
ピカッと光ったら
一秒もしないうち
二十四万七千人もの人を
地上から消した原爆
今度から
「コンバット」などに
手をたたけない
おれはうれしかった。わかってくれたのか。だがまて、話はうますぎないか。あれだけの体験を通じてやっと血になっているこのおれの戦争憎悪を、この子たちは、おれの一回の話だけで体得してくれたのだろうか、そうは思えない。
ましてや、戦争が悪であるということを、理屈で教えることにどれだけの効果があるだろう。戦争の体験がまるっきりない子、おまけに、テレビ、マンガ、あらゆるものを動員して「カッコいい戦争」を子どもの体にしみこませる時代である。戦中派と戦後っ子のすれ違いはしょせん避けられないのではないか。
戦争憎悪の感情を吹きこみ、理屈で戦争悪を説く、それはそれで大切なことだが、もっと根本的な方法はないものか。わたしは考えた。
子どもの生活をとりまいている、自然、人間、社会の中に充満している「美しいもの」「みにくいもの」を的確に判断できる心を養うこと。そして「美しいもの」を愛する心を育てること。それを表現する力をつけてやること。これこそ、遠回りのようだが、結局は本当に戦争をきらう子をつくる早道ではないか。そうしたことこそ「戦争を教える」教育ではないのか。これがうまくいけば、将来大きくなって、勇敢に戦争に反対する人間が育つのではないか。いつしかこう思うようになった。
そこで、おれは、おれの教室の子どもたちをジッと見つめる。
漁村生麦は埋立てられ、工場ができ、農村から人が集まってきた。今は、煤煙の下に、家がギッシリつまっている。
勤労を感謝される人ばかりの町だが、一〇月二三日(一一月の間違いか?)働いている人が多い。PTA役員婦人にも、ひまな人はいない。母の会が、着物の展覧会かというようなことはない。ふんどし一丁で風呂屋から出てくる人も、めずらしくない。人間まるだし、生地まるだしである。
子どもたちは、よく食べ、よく笑い、テレビ見ている。貸本屋、駄菓子屋が多い。コトバは荒いが、心はまっ白である。どこからどこまで子どもである。義理と人情の下町っ子である。かわいい。帝国軍人の二等兵みたいな面魂をしている。跳箱などこわがらない。よく手足を働かす。人間の地金がしっかりしている。磨けば光る子である。
この子たちに、人間が作り出してきた文化の良いもの、美しいもの、必要なものを、与えていきたいと思う。戦争につながる一切のものを否定する見解や意見が、正しい形で、後に出てくることを期待できるような下地になる、素質をつくろう。
と同時に、日本語を手段として、現実に働きかけ、進んで自らの思想、感情を築き上げていく、生活つづり方の道に、力を傾けていく。真に正しく豊かなものの見方、考え方、感じ方を、文章にまで表現する指導を通して、子どもたちのものにすることに努めていく。
やさしい子を
おれと親たちとの対話を集めた「通信」を見てほしい。
うすぎたねえ教室だ
いままで欠席した人と、その理由は、次のとおりです。沢崎みどり(中毒)一日・飯田芳正(かぜ)一日・紺野仁(おでき)二日・橋本史郎(かぜ)一日。
四人に、お見まいに来てくれた人がいたかどうか、聞いてみました。巴ヨネさんが、みどりさんを見まってくれていただけでした。
「そうかよ。ヨネさんだけかよ。うすぎたねえ教室だなあ……。いま〈うすぎたねえ〉といったが、何がきたないのか、わかるかい?」
「……」
「友だちが休んでも、お見まいにいくような人がいないからです」
みどりさんが、こたえてくれました。
「そのとおりだ」
「家が(をのこと)知らないもの」(数名)
「何を言ってやがんだ。橋本なんか裏門のすぐそばじゃねえか。飯田んとこの周りには、この組のやつウジャウジャいるじゃねえか。生麦には、遠くはなれた一軒家なんて、一軒だってありゃしねえや!」
そうタンカを切っておきました。(4・25)
六回も手をあげました
梁瀬千香子さんちへ行く。こんどは、新聞集金の人に間違えられなかった。おとうさん、おかあさん、もうひとりの人で、仕事のまっさかり。カメラの部品作り。下請け仕事の苦労話をお聞きする。
「千香子さんは、きょう六回も手あげましたよ。(千香子顔出す)お前、きょう威勢よかったなあ。よく話したなあ」
千香子さん、顔くにゃっとさせた。
こまかなお仕事を、毎日八時半から七時ごろまでなさっているおとうさん、おかあさんの神経、少し安らいだようだった。(6・12)
妙浄童女霊位
一年ぶり、村松さき子にお線香をあげてきた。おかっぱ頭、丸顔の写真に手を合わせてきた。(昭和33年3月26日妙浄童女霊位行年十歳)
さき子はおとなしい三年生だった。目立たない子だった。そのさき子に、ぼくは、やさしい声かけることの少ない先生だった。「デキネエナア、ハキハキシネエナア」という顔で、冷たい眼ざし向けることの多い先生であった。
さき子は、春休みにはいった日、四年生の本を本だなにおいたまま、ハイエンのため、この世から去っていってしまったのだった。〈ただのかぜだろう〉ぐらいに思い、お見まいにもいかなかった。
おやじさん、おふくろさん、ぼく、三人こたつにあたりながら、いろいろ話しあった。
「本山へ行ってる山中茂子さんと、法政の高橋光さんですがね、ありがたいお子さんです……。いまでも忘れずに来てくれてるのですよ。春秋の彼岸、それから命日に、さき子のところまで、草花など生けに来てくださっています。ありがたいことです」
「へえ……あの子たち。そうですか」
「光、茂子……茂子、光……」とつぶやきながら、さき子に別れを告げ、雪どけの道に出た。(2・5)
子どもの文集「エントツ」をもう一度見てほしい。
エサ
内海 茂直
新聞配達の給料もらった
給食費などのほか
何に使おうかな
そうだ
セキセインコと文鳥のエサ買おう
小鳥は
配達の給料で買ったこと
知ってるように食べている
このエサは
一つぶだってむだにできない
といっているように食べている
文学堂で
頼 けい子
川崎の文学堂
岩波の本が
一列にキチンとならんでいる
先生が読んでくれた
「南ベトナム戦争従軍記」もある
「橋のない川」ないかな?
あっ、あったあった
一冊二冊三冊四冊ある
少しはなれていよう
だれが見るだろう
15分ぐらいたっても
だれも見向きもしない
見るだけでもいい
だれか見てくれないかなあ
なぜなんだろう?
磯村 辰彦
ザクッ!
シャベルですくう
ボウッ!
かまあけて砂入れる
あけたとたん
おとうさんの顔半分
お化けのようにまっかになる
ジクッと汗が出る
鉄運ぶ時もある
こないだ鉄をおとした
右足のむこうずね
むらさきのビー玉みたいに
ふくらんでいた
でも
三日休んで出ていった
「会社が大事だ」と
ビッコ引き引き出ていった
旭ガラス勤務27年のおとうさん
休んだのは三日だけ
会社と仕事を
ぼくたち家族同様に愛している
しかし
ぼくの家はガード下だ
電車が走る
ゴーギャーッ!
おまけに暗い
一日中電気つけっぱなし
昼間でも停電になったら大変だ
まじめに27年働きどおしのおとうさん
ピッカピカのガラス作っているおとうさん
戦争アレルギーのおれには、これはまどろっこしい仕事だ。いつも、おれはおれの感情をナマで子どもにぶつけたい衝動にかられる。だが、まて。遠まわりの道の彼方にこそ、実りが待っているような気がする。