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第四章 熱血小沢発言

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●紀元節の復活と小学校教師(読書新聞・一九六七年二月十一日)

 恐ろしさにふるえる天皇の“民草”から
 “人間先生”に転向した私

小 沢  勲   


 神話の世界からさまよい出た亡霊“紀元節”が二月十一日、建国記念日として、祝われることになった。“明治百年”とともに、“反戦後”[注1]を完成させるものとして、この建国記念日には、これまでにも多くの反対があったが、神話を科学的に教えてきている学校の先生は、この日をどう迎えるだろうか。

 キマッタキマッタ

 総選挙は終わった。「特別番組」がはじまった。
 自民党幹事長が、
「国民の我が党に寄せる期待の深さをあらためて知り、責任の重さを痛感しています。」
と、わが世の春をうたっている。司会者の、
「カッタカッタと高い姿勢をもって臨んでくるのではないだろうかといった、危惧の念をもつむきがあるようでございますが……。」
というコトバに対し、
「いやあ、そんなことはありませんよ。〈実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな〉ですよ。」
と、わらっている。
 ぼくは、なんとも重苦しい心で夜の職員室にすわっている。「稲穂」ということばから、「豊葦原瑞穂之国」というコトバを連想しながら。
 頭をコウゼンと上げ、「二月十一日」を建国記念日だとし、「キマッタキマッタ!」と必死に喚き、命令してきた、政府自民党幹事長(福田)[注2]の笑顔は恐しい。
 これからぼくは、二月の行事予定表を作る。そこに、「建国記念日」と記入しなければならない。
 働く人々の子をあずかる教師として、この学校へ来てから十五年間、政府自民党は、わたしたち教師の上に、さまざまなことを押しつけてきた。そして、ついに「建国記念日」という名で、「紀元節復活」の命令を下してきたのである。
 今から二十一年前、神格を否定して人間宣言を行なった天皇は、またも「雲に聳ゆる高千穂」の彼方にまつり上げられようとしている。賛否両論の渦巻く中で強行された、「天皇制国家」の表徴の回復を見つめる、ぼくの心は、恐しさにふるえる。
 十年ほど前のことであった。日本作文の会主催全国文集コンクールを終えて席上、戦前派先輩に対し、
「生活綴方事件でローヤに入れられた方たちには、全く頭が下がるけど、おれは、そこまでついていけないや。」
と言ったことばが思い出されてくる。あのころはまだ、またまたそうした時勢がくるなどとは思ってもみなかった。
 恐しいことになった。
 「紀元節復活」は、一九六七年の日本の教師わたしに対し、再転向をそそのかしてきたことになる。

 二十一年前の転向

 二十一年前、わたしたちは転向したのであった。
  逝きて帰らぬ教え子よ
  わたしの手は血まみれだ
  君をくびったその綱の
  はしをわたしも持っていた
  しかも人の子の師という
  名において
 そう歌った高知県の先生の詩が代表する心持ちをこめて、過去のあやまりを認め、まちがいのない教育をしていかなければと、かたく決心したのだった。
 ○軍国主義の教育をやめて平和主義の教育をする
 ○侵略主義の教育をやめて国際友好のための教育をする
 ○絶対主義、国家主義、ファシズムに奉仕する教育をやめて、民主主義、人間尊重、文化の発展に寄与する教育をする
 ○非合理主義、神秘的な教育をやめ、合理主義の教育をする
 そうした転向の志をもって、清新ハツラツな出発をしたのであった。

 生活綴方の伝統を

 わたしの場合、すさまじい軍国主義体制の中にいて、反軍国の労苦に満ち満ちた戦いを続けてきた生活綴方の伝統を受け継ぎ、戦後を精いっぱい生きてきた。
 なにしろ、わたしという人間は民草として、国民学校聖職者として、関東軍兵士として、典型的日本人とし忠実そのものであったのであるから、険しい道であった。軍国的に武装された一切を、自らの手ではぎ取り、人間先生として、子どもとその親の前に立てるようになるだけでも、人一倍の苦労を要したのだった。
 日本国憲法と教育基本法をば、わたしの転向を内から支えてくれるもの、太平洋戦争最大の犠牲者を出した大正十年生まれの、生きるべき道とし、戦後の道を、ひたすら精いっぱい生きてきたのだった。
 そうして、ぼくをふくめた日本の教師の前に、軍国主義的な教育、真理真実を教えない教育、子どもたち自らによく物ごとを見させない、考えさせない教育が、強権をもって、〈日本の教育方針〉としてぶちたてられようとしている。
 
 真実を知った以上……

 一九四五年八月十五日に、今までのまちがいを悔い改めたことはとんだまちがいでごいましたと心に誓え、そして子どもたちに、「今まで先生はまちがったことを教えてきました。実は神武天皇という……。」
 国民学校三年生に、あの澄みきった瞳に向かい、
「シナやアメリカはサル! 日本人は神さま!」
とたたきこんだ小沢勲の、今現在の教え子、日本の六年生は、次のような作品を生み出している。この子どもたちに、口がひん曲がったって、うそはつけない。
 弱いボク、平教師[注3]ボク、五人家族の戸主だけれども、再転向はできない。一度真実を知ったものは、そう易々とその真実を曲げることはできないのですから。

  夜中       
              岩井 員年

 なんとなく目がさめた。
 十一時半だ。
 作業着のまんま、
 おとうちゃん、
 ふとんにこしおろしている。
 おかあちゃん、
 かべによっかかって、
 給料ぶくろを見ている。
 まゆ毛、
 への字にして見ている。
 ぼくは、うす目して。
 そうっとしていた。
 「おれが病気で七日休んだから。」
 おとうちゃん、
 ひとりごとみたいにいった。
 おかあちゃん、
 城嗣と都昌とぼくの方見ながら、
 「また、給食費まってもらわなくちゃ。」
 ボツンといった。
 
 ぼくの給食費
 もう四か月もたまっている。
 また出せないのか……。
 でも、ぼくは、
 おとうちゃんも、おかあちゃんも、
 うらまない。
 遊んではらえないんじゃない。
 おとうさんは、
 ちっちゃな工場へ七時半に出かけて行く。
 そして、
 九時まで残業しているんだ。
 胃のくすりのみながら、
 くたくたになるまではたらいているんだ。
 冷暖房装置のとりつけをしているのだ。
 おかあちゃんも、
 九時から七時まで、
 おむすび屋で、
 そろばんパチパチはじいているんだ。

 でも、
 ぼくのはいいけど、
 城嗣のだけは、
 はらってもらいたいなあ。
 「給食費もってかなきゃやだよう!」って
 だだ こねるんだもん。
 ぼく、
 新聞配達の給料
 二千円
 寒くなったってかせぐぞ!
 そうして、
 おとうちゃん おかあちゃんを
 たすけるのだ。

  
  ジョンソン大統領さま
                    田辺 保彦

ジョンソン大統領さま。
ぼくは、新聞配達のアルバイトをつづけている日本の一 少年です。
あなたのお国の方ペリーが鎖国の戸をたたいて下さった 国日本の六年生です。
ぼくは大統領さまにぜひともおねがいしたいことがある のです。
 
ジョンソン大統領さま。
ぼく「ベトナム年表」しらべてみました。
紀元前三世紀から十世紀にかけて、中国に、
十九世紀末から二十世紀なかばまで、フランスに、
ながいあいだ植民地支配をうけていたことを知りました。
第二次世界大戦には、ぼくたちの国日本もせめこんでい ます。
そして、今まだ、いつ終わるかわからないたたかいがつ づいている……。
子どもまでが毎年一万人も死んでいくという……。
 
ジョンソン大統領さま。
ベトナムのお医者がいっているとおり、
「解決の道はひとつ、戦争をやめること」だと思います。

ジョンソン大統領さま。
ベトナムに平和がきたのニュースがのったら、
ぼく、その新聞をよろこびいさんでくばります。
「平和だ! 平和だ! ベトナムに平和がきた!」
と、声をはりあげてくばるでしょう。
 
ジョンソン大統領さま、おねがいもうしあげます。


[注1]反戦という意味でなく、戦後手にした平和に反するかたちでという意味
[注2]福田は後年、総理大臣になる福田赳夫氏
[注3]平教師とは、役職についていない教師のこと



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