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第四章 熱血小沢発言

(5)



   時効のはなし
木俣  敏

 一九七〇年七月十七日。
 横浜駅うらにある浅間台小学校職員の朝の打ち合わせが終った途端、
「木俣さん電話」
と副校長に呼ばれました。
「もしもし」
と、いい終わらぬうちに、
「小沢だ。何よ。学校なんかに出て……」
「だって、きょうは……」
「だってもねえよ。きょうは何の日かぐれえは知ってるだろ。家永教授の教科書裁判の判決が出る日だぜ……わかった。わかったよ。絶交だ。もう横浜作文の会にも、出てくんな……」
「ちょ、ちょっと待って。」
 いつものこととは言いながら、ここまで捲したてられるとあとの修復が面倒です。電話が校長の机の脇というのも、困ります。相手の話し声だって、聞かれ兼ねない距離です。ここは電話をいったん切って、違う場所から架けなおすことにしました。
「??急に頭が痛えとか、腹の調子がおかしくなったとか言って、早退してくりゃ、何とか裁判の傍聴券のくじ引き時間には、間に合うよ。横浜駅8番ホームの先の方で待ってる。」
 ガチャンと小沢さんの受話器を置く大きな音がしました。
 仮病を使って早退。わたしは、横浜駅に直行しました。
「おう、木俣さん、こっちだ。こう来なくちゃあ。」
 というわけで、小沢さんと電車に乗り込みました。

 東京地裁前は、日本教職員組合をはじめ、家永訴訟を守る会の母親、労働団体など、支援をするかなりの人たちが集結をしていました。その間を報道関係の人たちが忙しく行き交っています。TVカメラの据え付けもあって、異様な雰囲気を醸しだしていました。
 わたしは、咄嗟にカメラの放列から離れていたいと思いました。
「小沢さん。カメラが怖いよ。もしTVのニュースにでも流され、早退した者が写っていたなんてことになったら、まずいし……くじを引くまで、向こうにいる」
「おう、わかった。仮病だものなあ。隠れていたほうがいい。じゃあ、後で……」
 脚立を組んでいる、カメラ席の足もとに居れば写ることはないだろうと、考えました。
 ひとりになった小沢さんは、カメラのライトが光ると、胸はってのり出していくのです。まあ、小沢さんは休職中の身だし、撮られたとしても問題はないだろう。
 TVカメラからは逃げ回るわたしと、地裁に来た確たる証をたてる小沢さん。このときの一まいの写真が一九七〇・七・三〇発売アサヒグラフの一面を飾ったわけです。ありし日の小沢さんの勇姿?です。




母親たちによみがえった平和憲法
ー教科書裁判に家永教授が勝訴ー

勝訴が決まった瞬間、東京地裁内で傍聴していた東京・練馬の「家永訴訟を守る会」のおかあさんたちも破顔一笑。

「アサヒグラフ」(1970年7月31日号より)

中央やや左、ただひとり笑顔を見せない男性が小沢先生。



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