文集「エントツ」
文集「エントツ」

 エントツ復刻2、中断より

 小沢勲学級・文集「エントツ」復刻1の奥付を見ると、一九八一年です。いまから二〇年も前のことになるのです。
 続く復刻の2を出そうとの計画に添って、今度は当時小沢学級で学んだ人たちの声(証言)もとりたいと、文集「エントツ」を読み、「よし。巴由美子さんがいいな。…この人も」と目星をつけていきました。卒業生名簿で住所を調べ、伺ってみれば、とうに引越されてしまわれたりと、一日を棒に振ることもありました。第一、わたしにとって生麦の町は、学区ではなし全く不案内です。歩いて、聞いて、尋ねて。生麦の町も、変ってきました。むかし磯だったところは埋め立てられたり、海水の汚れも目立つようになり、海に頼って生活していた人たちはやむなくその生活源を他に求めなければならなくなり、生麦の町を涙して離れる人も出てきました。二世代三世代と生麦小育ちなどの話も少なくなってきました。家内工業は、中規模の工場に吸収され、さらに大企業に淘汰され、平屋は高層マンション化の敷地に買収と、変貌の幅も大きくなってきました。生粋の地元っ子が希少価値となっていくような現象は、淋しい限りです。
 そうした中で、教育だけは浪風も被らず別格、そんなことあり得ません。指導要領が変わる度に、教育現場への締めつけが強くなり、俯く教師も多くなってきました。教育の専門誌も絶版廃刊を繰り返す流れのなかで、次第に教育自体の顔も無表情を装うようになっていきました。
 復刻2も、やむなく頓挫。わたしの中では、もう日の目を見ることはあるまいと、資料原稿を書庫の一番奥へ押し込むことで、作業の終止符を打つこととしました。

 唐突にインターネットの洗礼を

 わが家と外界をつなぐ通信手段は糸電話これ一本のみなのです。ところが、わたしの回りでは、インターネットとやらの蜘蛛の巣電波が激しく飛び交っていたのだと、臼井さんから訊かされました。
 長い長い長い手紙が臼井さんから届き、一面識もないわたしが無性にお会いしてみたい、そんな思いに駆りたてられてきたのには、次なる文章のくだりを読んだからに他なりません。
 臼井さんが、かつて小沢学級に籍を置く生麦小の一小学生であったときに、障害のある子を踏みつけてしまった件が書かれてありました。小沢さんは、臼井少年を同様に床に伏せさせ、その顔を踏みつけたというのです。当の小沢さんを熟知しているわたしだからこそ、次の確たる展開が見えるのですが、はたしてあなたはどうでしょうか。
 これほどの屈辱・恥辱・侮蔑感を味わったら、先生の顔など見たくもない、口聞くのも嫌だとなるのが、落ちです。今なら、差詰め、登校拒否だ暴力教師だと、マスコミの集中砲火を浴びてしまいかねない話です。ところが、そうはなりません。直情さと脆さを合わせもつ少年のやわらかいこころに、間髪いれずに「巴(臼井さんの旧姓)、明日投げるか」このやりとりに帰納していきます。ここに小沢勲さんならではの人間味溢るる教師の所以があるのです。
 やがて巴少年が社会人となり、ふと過ぎこしの歳月をふり返る余裕を得たとき、再び小沢先生のこころの琴線に触れ合うのです。

 勤めのほかに、臼井淳一氏は、
 新日本軟式野球審判クラブ代表
 首都圏サタデーリーグ会長
 と、軟式とはいえ日本の野球界の一端を支えていらっしゃる輝かしい肩書きをもつ御仁なのです。野球狂でもあった小沢さんが居たら即座に「淳一よう、話なんてあとまわしだ。一杯飲もう」と、乾杯し、涙ながして喜ばれるに違いありません。
 その臼井さんが「エントツ」の復刻1があって、2のない経過がわかると、資料や原稿を是非見たい、読んでみたいと言うのです。整理なかばで筆を折ってしまったままの原稿や資料をお送りしたところ、「これ、出版したい」というところにまで、話は昂まってきてしまいました。
 お会いするたびに、話はとんとん拍子に運んで、臼井さんと知り合いの北原さんは、小沢学級だった多くの教え子に「エントツ」復刻2の出版を広く協力要請するチラシまで作りあげてしまい、大きく動き出すこととなってきました。
「木俣さん、悪りぃ。そのうち淳一といっしょに埋め合わせするから、頼まぁ」
と、久しぶり小沢さんから、そんな声を聞いたような気がするのです。夢のなかのことではありません。
 こりゃあ、他のしごとを脇に押しやってでも「『エントツ』復刻2 小沢勲の成してきたしごと集、やりましょう」と言わざるを得なくなった次第です。

木俣  敏


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