●小学生の日記と手紙 五年生(小峰書店)より
 心と心を結ぶ手紙

 
ほかの学校の生徒の詩を読んだ少女が感想の手紙を書きました。手紙を受け取った少年は、その少女に返事を書きました。
 
 
 ばかにするな
   
生麦小 堀池大一郎

「おまえ なん年よ?
 なん年の勉強してんのよ」
四年生が
小黒級(おぐろきゅう)の女の子を
からかっている

ぼくは すっとんでいった
「てめえ ちょっとこいよ!」
「なによ」
四年生
小声でビクビクしている
「あやまれよ ほらはやく」
にらみつけてやった
小声で
「ごめんなさい」と
半分頭さげた
ぼくは
「もっと まじめにやれよ
 もっと近くでやれよ」
と またにらんだ
四年生
近くにより
頭 全部さげた

小黒級の子を見たら
にこっとしていた
ぼくも にこっとした
 



〈手紙 3〉
堀池君への手紙


 堀池くん、私は、稲荷台小学校五年一組の福室百乃です。クラスいちばんといってよいくらいふとっていて、科目は国語がだいすきです。にが手は、体育。でも、ゴムとびは、クラスいちばんと、みんなにいわれています。
 私は、生麦小学校のお友だちの詩を読んで、あまりじょうずなのでビックリしてしまいした。これを読んだ、クラスのみんなの感想は、
1、うまい
2、感じ方がするどい
3、物をよく見つめて、ふかく考えている
などでした。私たちのクラスの詩とくらベると、書き方もそうですが、内容も、全然ちがいます。
 たとえば、私たちのクラスでは、「日曜の朝」とか、「十三夜」とか、「ニワトリ」とかいうのが多いのです。また、かざろう、という気があります。
 あなた方は、おもったとおり、ズバリズバリと書いていますね。日常の生活の中であったことを、はっきり書いていますね。私は、少しは、もって生まれた才能というものもあるだろうけれど、よく努力しているからだとおもいます。考え方だって、はじめからふかかったわけではなかったのだとおもいます。中でも、堀池くんの「バカにするな」には、感心させられてしまいました。
 どんなに知能がおくれていたって、小黒級のお友だちは、その人なりに、いっしょうけんめいやっているのです。小黒級のお友だちの中のひとりひとりには、かならずすばらしいものがあるはずです。それなのに、まるで小黒級のお友たちがわるいみたいないい方するなんて、私も、がまんできないです。私たちの学校は、小黒級のようなクラスは、できていません。けれど、堀池くんが怒ったようなことが、よくあります。私たちのとなりのクラスにも、そういう知能がおくれた人がいます。わるくもないのに、ひっぱたかれたり、バカにされたりしているのを見かけます。そんなとき、私は、たまらない気持ちになります。けれど、私は、そのまま見ているだけです。勇気がありません。
 堀池くんて、心が広くて勇気がある人ですね。私たちの先生、木内先生も、
「りっぱな子だ。」
と、三度くらいくりかえして、堀池くんの詩をきかせてくれました。
 堀池くんには、まだ一度もあったことはありませんが、なんだか堀池くんという人が、わかるような気がします。「大一郎」。なんてりっぱな名前でしょう。堀池くんは、名前にまけないりっぱな人だとおもいます。 堀池くん、これからもますますがんばって、りっぱな詩をたくさん書いて送ってください。わたしもがんぱります。
 さようなら。

   十一月十九日       福室 百乃

堀地大一郎くん

(神奈川県横浜市稲荷台小学校 木内義一先生指導)



 


〈手紙 4〉
福室さんへの手紙

 福室さん、お手紙ありがとう。女の子から手紙もらうなんて、はじめてのことなので、ビツクリしてしまいました。
 職員室で読んでいると、川端さん、松尾さんがよってきて、
「大ちゃんもてるわねえ。」
といいながら、とりあげようとしました。先生も、ふたりも、ニヤニヤしていました。ぼくは、かくしながら読みました。
 ぼくの詩をほめてくれて、ありがとう。だけど、ぼくは、あの詩をつぎのように書きだしたのでした。
 1 学校の帰り道、
 2 小黒級の女の子を、
 3 四年生がからかっていた。
 4 「おまえ何年よ?
 5 何年の勉強してんのよ。」
 推考するとき、小沢先生がいつも、
「詩の書きだしはなあ、つづり方とちがって、だれが、どこでなどと説明ふうにやってはダメなんだよ。心がグッと動きだしたところからはじめるのだよ。」
といっているコトバを、おもいだしたのです。それで、一行めから三行めまで、線をひきました。小沢先生は、口ぐせのように、
「美しい、うれしい、かなしいなどというコトバは書かないで、そうおもったそのときのようすを、よくおもいだして書くのだ。そうしなければ、読み手にわかりはしないのだよ。」
といっています。福室さんたちの先生も、よくそういうことをいうでしょう。むずかしいですね。ぼくは、りっぱな詩やつづり方を書くには、(ふだん、ぼやっとしていてはだめなんだな。よく見たりきいたりしていなくては、おもいだそうとしても、なかなかおもいだせないな)と、つくづくおもいます。
 福室さんは、「詩をかく子ら(五年)」という本を知っているでしょう。あの中に、「とよとみ・ひでよし」というのがありますね。ああいう詩を読むと、ぼくは、(学校での勉強をしっかりし、教科書以外の本もよく読まなくては、ガッチリした五年生らしい詩は書けないのだな)とおもいます。
 ぼくは、「わたしたちの先生、木内先生も、『りっぱな子だ』と三度くらいくり返して、堀池くんの詩をきかせてくれました。」というところと、「大一郎。なんてりっぱな名前でしょう。」というところへんを読んだとき、からだ全体がはずかしくなりました。
 家へ帰って、おかあさんに見せると、「『大一郎。なんてりっぱな名前』って書かれてあるけど、ほんとかねえ?」
と、ニヤニヤしながらいいました。
 ぼくは、おっちょこちょいです。たとえば、算数のテストのときなど、わかっているのに、よくみなおしません。だから、つまらないまちがいをしてしまいます。そして先生に、
「堀池、おまえ頭いいけど、おっぱいくさいぞ。」
などと、いわれてしまいます。
 そういうぼくだから、行切り、コトバ選び、書きだし、むすび、題のつけ方などなど、めんどうくさいことの多い詩やつづり方は、ぼくにとっていい薬になります。
 ところで、福室さんと文通をしている、石綿さんが、二十一日モウチョウになりました。近くの病院に入院しました。けれど、経過が順調で、二十四日には退院できるとのことです。
 これからも、『エントツ』や『ひろば』をこうかんし、おたがいに勉強しあっていきましよう。
 では、さようなら。

堀地大一郎

 福室百乃さんへ




【評】
 教室と教室を結ぶ、二つの手紙をのせました。
〈手紙 1〉と〈手紙 2〉は、昭和二十八年、和歌山で台風の大ひ害をうけた西岡さんのつづり方がもとになり、兵庫のお友だちと結ばれた手紙。(註・割愛)
〈手紙 3〉と〈手紙 4〉は、やはり、文集交換がもとになり、お友だちづき合いをすることとなる手紙です。
 この二つの手紙を、次のようなことを考えながら、もう一度読んでみてください。
1、コトバに気をつかっている。
顔を見たこともない、はじめてのお友だちにだすお手紙なので、コトバづかいに気をつかっている。といって、バカていねいなコトバは使っていません。
2、何を書くかがハッキリしている。
どういう心をつたえたいのか、どうしたことがらを知らせたいのか、その中心点がはっきりしている。
3、整理されている。
はじめのあいさつから、さようならまで、書かれていることが、キチンと順序よく整理されている。(段落を追い、ゆっくり小見出しをつけながら読んでみなさい)
4、コトバを選んでいる。
ただ相手の人にわかってもらう、というだけでなく、その人の心にしみとおっていくには、どう表現したらよいかを、考えながら書いている。コトバをいいかげんに使っていない。
 このような手紙は、教科書にでている「手紙文」を勉強したあと書いてみるといった、インスタント・ラーメン式勉強からは生まれてきません。
 これらの人たちは、あなた方がよく耳にする「生活の文」という、すべての文章の土台になる学習が、身についているのです。
 どうせ書くなら、ひととおり気持ちがつたわり、ことがらがわかるというだけでなく、相手の心にしみ入り、相手の心をゆさぶるような手紙の書き手になりたいものですね。

(「小学生の日記と手紙」編集部)




 


 わたしの日記

        横浜市立生麦小学校 石綿共子

 
 
 お線香あげに七月二十一日)
 
 前田くんの家へ、「詩帳」をとどけにいきました。前田くんがいなかったので、おねえさんにわたして、へいの外へでました。私が、
「ここまできたから、おばさんに、お線香あげてこうか。」
というと、みこが、
「うん、いこう。」
といったので、ヨネちゃんと三人で、ゆっくり、げんかんへはいっていきました。
「お線香、あげさせてください。」
というと、中からふたりのおねえさんがでてきました。
「どうもありがとう。さ、おあがりなさい。」
と、やさしくいいました。私たちは、もじもじしていたれど、えんりょなくあがりました。
 私は、足のよごれているのを気にしながら、ふと、へやのすみを見ました。黒と白のまざったネコが、親子らしく、三びきかたまって、私たちのほうを、めずらしそうに見ていました。(前田くんも、ネコの親子のように、おかあさんがいたらな)とおもいながら、ゆっくり仏さまの前へいきました。ふと、前を見ると、ピカピカ光った仏だんの横に、おばさんの写真がかざってありました。私たちを、
「よくきてくれたね。」というように、見ているようでした。お線香を三本あげ、
「おばさん、前田くんは元気で、いっしょうけんめいやっています。また。お線香をあげにきます。」
と、お祈りしました。
 げんかんへいくと、ふたりのおねえさんは、きちんとすわっていました。
「おじゃましました。」
「さようなら。」
 しずかにいうと、おねえさんたちは、たたみに頭がつくほど、ていねいにおじぎをしながら、
「どうもありがとう。おひまがあったら、また遊びにいらっしゃいね。」
と、やさしくいってくださいました。
 私は、(また、お線香あげにこよう)とおもいながら、外へでました。
 
 
 衛生屋さん(七月二十二日)

「なにやろうか。」
「社会やろう。」
 小沢さんとふたりで、勉強をしていた。
 すこしたつと、おかあさんが、家でつくった氷あずきをもってきてくれた。たべていると、家のまん前へ、衛生屋さんの車がとまった。すると、小沢さんが、
「くっさーい。」
と、まゆげとまゆげをよせ、鼻を穴をちぢめるようにしていった。私も、
「ほんとにくさい。」
と、いってしまった。おかあさんが、
「みんなは、こうして氷をたべていられるけれど、あのおじさんたちは、氷なんかたべないで、暑い中をはたらいているんだから、『くさい』なんていったら、だめよ。」
と、わらい顔も見せないで、私を見つめながらいった。私は、おかあさんのいうとおりだとおもった。けれど、どうしても、くさい。
 しかし、私の心の底の底では、「くさいといっては、いけない!」ということが、ようくわかっていた。
 
 
 くさいくつ下(七月三十日)

おとうさん
くつ下の先をつまみ
私の鼻先にヒラヒラさせた
プーンと
すえくさい におい
「キャーッ」
鼻をつまんだ

だけど私は考えた
このくさい
くつ下の中の足が
私たち家族を
りっぱに支えてくれていることを
 
 
 まん月(八月十三日)

「みんな、ちょっときてごらんなさい。」
 台所のほうから、おかあさんの声がした。私は、(なにかいいものを、くれるのかな)とおもって、いそいでとんでいった。妹もとんできた。そのあと、お父さんも重いからだを、ドタドタさせて、六じょうからとんできた。私は、台所を見おろした。そしたら、おかしなど、ぜんぜんおいてなかった。(つまんないの。用があってよんだな)とおもった。
 すると、おかあさんが
「ほら、あそこにお月さまが見えるでしょ。きょうは、まんまるで、とってもきれいね。」
と、炭屋さんの屋根の上のほうを指さしていった。私は、
「どこ、どこ。」
といって、せのびをして見た。まあるくて、かわいいお月さまが、
「こんばんは。」
と、いうように、私たちのほうをのぞいていた。妹が、
「きょう、十五夜?。」
と、きょとんとした顔でいった。
「十三日で、まんまるになったから、十三夜。」
と、私がふざけていった。そしたら、
「十三夜か、おもしろいな。共子、大発明したね。」
と、おとうさんが、わらいながらいった。
「さっ、いこう。」
 私と妹は、つくえのところへもどって、えんぴつをもった。ふと、また空を見たら、お月さまが、「えらいね。」と、いっているように、私には見えた。
 お月さまは、私が、勉強おわるまで見まもっていてくれた。
 
 
 ふとんにはいってから(八月十四日)

「おやすみなさい。」
「はやくねむんなさい。」
 おかあさんと、おとうさんが、そろっていってくれた。
 まもなく、ふたりの話し声がした。
「あら? きょう、森田先生に毛紙を書くっていっていたのに、山うらさんのおじさんにだわ。ちょっと見てごらんなさい。」
「そうかよー。どれ。」
 ふたりで、私の手紙を読んでいるらしい。
「このごろずいぶん、手紙の書き方がじょうずになったわねえ。」
「おまえより、じょうずじゃないか。」
 私のことを、ほめている。
 うれしくなって、足をピーンとのばし、ちぢまったむねを、大きくはった。
 
 
 戦争(八月十五日)

「戦争がおわって、もう二十年になるのねえ……。」
 夕食のあと、おかあさんが、きゅうにおもいだしたようにいった。すると、おとうさんが、
「そうだなあ……。いまはこうしてのんびりしていられるけど、お茶を飲んだり、レコードなどをきいたりしていることはできなかった。ちょっとのまにも、
『ウー。』と、すぐ警戒警報が鳴り、つづけて、空しゅう警報になって、電気をけさなければならなかったんだよ。」
と、しんけんな顔で話した。つづけて、おかあさんが話しはじめた。
「家が焼けたのは、五月二十九日。あの日は、だいじょうぶだとおもって、防空ごうへいかなかったの。けれど、あぶなくなったので、三つだったのりおじちゃんをおぶって、外へでたのよ。ちょうど、まだあかちゃんだったふみおばちゃんのぐあいがわるかったので、おばあちゃんは家の中にいたのよ。外へでると、あたりはしずかだったけど、消防のおじさんが、『あぶない、はやくはやく!』といったので、むちゅうで防空ごうへはいったのよ。
 少したつと、反対の入り口へ焼い弾が落ちたというので、びっくりして外へでると、あたりいちめんけむりで、にげだすのもやっとだったのよ、みんなについて、『神中』の校庭へにげたのよ。消防のおじさんが、ずきんをとって、防火用水にザブンとひたし、そのまんま頭にかぶせてくれたこと、ハッキリおぼえているわ。
 のりおじちゃんをおぶって、むちゅうでおばあちゃんたちをさがしたの。おばあちゃんたちも、むちゅうで、おかあさんたちをさがしていたのよ。稲荷台小学校の上のほうで、みんなにあえたとき、おばあちゃんにかじりついてないちゃったのよ。おかあさんが、十三歳のときだったわ。」
 ここまで話したとき、おかあさんの目には、なみだがいっぱいだった。みんな、シーンとなってきいていた。
 おかあさんは、ときどき、戦争のころの話をしてくれる。松本へそかいし、家へ帰りたくて帰りたくて、毎日毎日、手紙を書いたこと、どのようなものをたべていたのか、など。
 六日に、テレビで原爆が落ちたあとの広島を見た。おかあさんから、後い症の話をきいた。原爆を落とした人間が、にくらしくてたまらなかった。
 そして、きょう、おかあさんから話をきき、よけい身ぶるいがしてくる。十三歳だったおかあさんが、弟をおぶい、「おかあさん、おかあさん!」とさけびながら、火の道をかけずりまわっている。「戦争」、少しもかっこういいものではない!

(小沢 勲先生指導)





【評】
 一学期のあいだ、一日もかかさず日記を書きつづけた石綿さんにとっても、「夏休み日記」は大そうホネのおれる仕事だったでしょう。石綿さんは、もう独立独歩の五年生。先生が、赤ペンで何やらかやらはげまさなくても、自分自身で書き進んでいける人にまで成長しました。
 四十日間、どの日も文字がくずれていませんでした。やさしくするどい心の日記でした。ありふれた一日一日の中から、キラキラ光るものをとらえていました。

(小沢 勲)




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